いきなり何を言い出すのか? とお思いかもしれませんが、大御所・徳川家康の駿府城天守を、小堀遠州が深く関与した「最後の立体的御殿」と考えて、色々と申し上げて来た当サイトとしましては、こんな問題意識を持たざるをえないところです。…すなわち、ブルーノ・タウトと日本建築の「評価」をめぐる問題です。
皆様ご承知のとおり、戦前に来日し、桂離宮を世界に喧伝しつつも、反対に、日光東照宮を散々にこき下ろした文言(いわく「あの野蛮なまでに浮華な社廟」)で一躍、多くの日本人に名前を知られることになったのが、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトでした。
以来、タウトの言説は、日本人にとって一種のトラウマともなって、簡素な桂離宮こそ日本建築の最高峰であり、その逆に、日光東照宮は“非日本的な”“こけおどし”の建築であり、それは徳川家光ら“下克上の武家”による特殊事例なのだ、といった感覚がうっすらと日本社会に共有されるまでになりました。
こんな、こんな極端なタウトの言説のせいか、戦後の長い間、天守を含む城郭建築を「日本建築」として語ることを毛嫌いした日本人の研究者が、けっこう多かったのではないでしょうか。
言わば、伝統による土着的な装飾を「悪」と見なして、機能性や合理性の追求から生まれた美を最上のものとするモダニズム建築を標榜したタウトですが、ところが驚くべきことに、そのタウト自身が設計した建築や都市計画と言えば…
!!… これらには確かに「悪」とした伝統的な装飾は無いものの、それぞれの“物”そのものは、右上写真が鉄鋼産業界の広告用パビリオンとしての「塔」(階段状ピラミッド)であったり、下写真は、田園都市の中心にもその「冠」たるべき高層建築が、歴史的都市の「大聖堂」や「市庁舎」のごとくに、共同体精神の具現化として必要なのだとしていて、ちょっと唖然(あぜん)とするような作品が含まれているのです。
であるなら、彼の東照宮批判とは、いったい何だったのだ!?(あまりに罪深いのではないか…)という憤りにも似た感情がフツフツと湧き上がって来るのですが、さらに始末の悪いことに、そのタウトが、あの小堀遠州を崇拝していたのも有名な話です。
タウトは当時すでに、桂離宮に小堀遠州が関与していない可能性を聞かされていたにも関わらず、いわゆる「遠州好み」に魅せられ、中国的装飾を排除したストイックな簡素さの中に“モダン”を感じとり、それを日本の美の頂点だと評価したのです。
で、かく申し上げる当サイトの立場は、かつて内藤昌先生が論述した「(駿府城天守は)家康の隠居城にふさわしく、実に華麗なデザインがなされ、材質も金・銀をふんだんに使った贅沢な意匠であったことが偲ばれる。そしてそのデザインは、駿府城の天守奉行小堀作助(のちの遠州)であり、御大工頭が中井正清であったことからも、名古屋城の様式に受け継がれたものと考えられる」(『城の日本史』)という考え方を最大限に支持するものです。
ですから、内藤先生の指摘どおりならば、駿府城天守とは本来、遠州好みや王朝風の美をまとった日本建築の“到達点”の一つであったかもしれないうえに、ひょっとすると、タウト以降(=戦後)の偏向した?日本建築観をゆり動かす存在なのかもしれません。…
そしてその建造の時期は、安土城天主を詳しく伝えた『信長公記』の写本が出回った時期と微妙なタイミングであり、しかも施主の徳川家康本人は安土城天主をつぶさに実見していたわけですから、駿府城天守とは、織田信長の「立体的御殿」から出発した天守の、本来あるべき姿の、最終的な“決定版”が目指された可能性もあったのではないでしょうか。
(※ちなみに安土城天主を「立体的御殿」と評したのは、内藤昌先生と三浦正幸先生のお二人であり、この言葉は、天守研究の今後を左右するものとして当サイトは注目しております)
さて、かつての地元の天守再建運動に呼応して出版された本には、内藤先生による天守の外観から内部構造にいたる復元案が示されています。
しかも少々勇み足の蛇足?として、天守台の地下を博物館か美術館にする計画図も付け加えられていて、これなどがひょっとしますと、その後の検討委員会において「本物志向でないと…」という批判の呼び水になったのかもしれません。
ですが、最後の「立体的御殿」としての駿府城天守は、ここまで申し上げたとおり、一城郭の建築という範ちゅうをはるかに超えた価値と、今日的な課題に向けた強い発信力を秘めています。
したがって当リポートの内容やビジュアルがどうであれ、この天守の失われた姿を解明し、取り戻すことの意義は、現代の日本人にとって、例えようもなく巨大だと申し上げておきたいのです。
そんな勝手な思いを込めつつ、当リポートは全体を二部構成として、
第1部 <詳しい文献記録があるのに、なぜ諸先生方の復元案には、収拾しきれない振れ幅が生じたのか>
第2部 <大胆仮説のビジュアル化 その1〜4>
という内容でご覧いただきましょう。
大御所・家康が移り住んだ矢先(慶長12年/1607年)の本丸火災の後に、ただちに再建された駿府城天守は、指図の類いが発見されていないものの、『当代記』等の文献に建物の概要がしっかりと記されていて、素人目には、現存しない天守の中でもかなり恵まれた方に見えます。
(主な文献 : 『当代記』『慶長見聞録案紙』『御天守御注文』『慶長日記』『武徳編年集成』など)
このほか『慶長政事録』等では三重目が「九間に十一間」と異なるため、三重目の造りは二重目までとやや違っていた可能性があり、また同書には「七重目 四間に五間 物見の殿という」とも書かれていて、最上階の規模も判ります。
そこでこれらの史料をもとに、歴代の諸先生方から多くの復元案が提起されて来ました。(順不同/並び方は画面の都合のみ)
主なものだけ挙げさせていただきましたが、あえてザックリ申しますと、どの復元案も“文献記録の範囲内”にほぼ納まってはいるものの、細部がみな異なるため、全体として収拾しきれない振れ幅が残り、その優劣を誰も判定できない、という、こう着状態が続いています。
では何故、このような状態になったかと言えば、その元凶は、上記の文献記録のほかに、記録とは必ずしも一致しない絵画や城絵図が、大きな存在感を示し続けて来たからに他なりません。
言わば、決定打(指図)は無いのに材料が色々ある、というのが、駿府城天守の不幸の始まりだった、とも言えそうな今日の状態です。
そこでまことに僭越(せんえつ)ながら当サイトが申し上げて来たのは、<色々ある材料を仕分けして、思い切って一部を判断から除外する> という作業こそ、今後の展望を開く道ではないのか、というご提案に基づくものです。
こんな様子に対しまして、城郭研究のパイオニアの一人、城戸久先生は「諸書が書いている十間、十二間と比べると、はなはだ大きすぎることになる」として巨大な天守台に疑問をとなえ、駿府城天守が最終的に火災で失われた寛永12年ごろが、ちょうど徳川幕府による大坂城・江戸城の天守再建(寛永度)と重なるため、駿府城も「この際に、焼失天守の石塁が、拡大積みなおされたが、建築は中止されたものと考えるより外はない」(『城と民家』1972年)と結論づけました。
つまり上記の城絵図に描かれ、明治29年まで存続していた巨大な天守台は、実際には使われなかったものと考証したのです。
となれば当然、本来の天守台は、記録の10間×12間にジャストフィットしていただろうし、なおかつ文献の「落縁」や「欄干」もその天守(層塔型)の構造内に納まっていたはず、と考えたのが下図の城戸案です。
一方、巨大な天守台は、まさに徳川家康が挑んだ「日本一大きく、世界一壮麗な」超巨大天守のためのものであり、完成していたなら「外観は七層、内部は九重に」なっていたのではないかと、お得意の模型でその巨大さを示してくれたのが櫻井成廣先生でした。
かくして研究の初期は、文献の建物の数値にくらべて広すぎる天守台の解釈方法が中心テーマであり、いずれも台上の大半に“何も無いこと”が心理的に耐えられなかったようで、やがて下記の城絵図を重視した内藤昌先生の案が登場しました。
内藤先生は師匠筋にあたる城戸先生の案について「既に家康が亡くなり、ただの宿館となっていた寛永一五年に寛永度江戸城より大きい大天守を駿府に築く必要があったとは思われない」(前出『駿府城』)と退け、ご覧の城絵図の黒い部分を「四方に櫓を配し中央に天守を置くといった異色の環立式天守」と解釈したのです。
そしてこの案のメリットとして「石段(地階)とは、一般にいう穴倉ではなく、極(めて)低い石塁(基壇程度のもの)で、その上に天守は建ち、周囲には櫓や多聞があるため、下層部は無防備に欄干や縁を張り出す御殿風の造りになっていた」という説明を行いました。
内藤案は城絵図という新たな論拠(材料)を持ち込み、多くの賛同者を得たものの、やがて「周囲には櫓や多聞…」という内藤案の城絵図の解釈に対する、根本的な反論が現れました。
先の内藤案以降は、多くの復元案や想像図が、天守台の四方には隅櫓、石塁上には多聞櫓が廻っていたとしたのに対し、八木先生の反論は異彩を放ちました。
天守二階の高欄からの眺望をさえぎるものは、それが何であれ、天守の設計と矛盾してしまうだろう、という考え方なのです。
(※香川元太郎先生も、イラストレーションでは隅櫓だけを描いて多聞櫓は描かず、「眺望」に対する一定の配慮を示しました)
当サイトとしましても「立体的御殿」のねらいを台無しにしかねない案は納得できませんし、ここであえて申し上げるなら、研究の初期から課題であった“広すぎる天守台上の空間の解釈”について、今こそ、勇気ある見直しが必要ではないでしょうか。何故なら…
城郭をめぐる様々な発見が続く今日、「天守」はいかに誕生したのか、という問題… それはかなり早い時期に「櫓」とは別の次元(領主の館の延長)で発生し、家臣や領民に見せつける「立体的御殿」として進化を遂げたものだろう、という当サイトの見方に対しまして、小牧山城の発掘成果は強い追い風になっていると思われます。
と申しますのは、山頂の主郭石垣は、何故あのようなものが突然に設けられたのか?という理由の点で、後の「天守台」の原形の一つでもあると感じられてならないからです。
その極めて特異な様相からして、あれは主郭内の「立体的御殿」を見た目に際立たせるための(中国古来の伝統にも基づく)「台」だと解釈するのが、信長の発想としてはいちばん自然で、合理的な解釈なのでしょう。
となれば、例えば伝説の楽田城「殿主」にもあったという高さ2間余の「壇」とともに、それは天守の原初的なスタイルを示すものであり、したがって本来、天守台上には広い空間(空地)があってもいいのだ、という意識改革を、昨今の発見は我々に強く迫っているのではないでしょうか。
内藤案に対峙する八木案が登場してからもなお、「四方の隅櫓」説は『東照社縁起絵巻』の絵と“手と手をたずさえる”ように定説化への道を歩み、例えば平井聖先生は「天守の様子は、家康の廟所に建てられた東照宮の縁起絵巻に描かれています」(『名城物語』2009年)と明言され、また三浦正幸先生は「文献と絵画の資料を総合して、層塔型の下見板張とする新復元案を示す」(『よみがえる日本の城11』2005年)として、下図の案を提示されました。
この時期の諸先生方の案は、かつての「城戸−櫻井」時代に比べれば、振れ幅がずっと収れんしたように見えながらも、ではいったい駿府城天守の外観は白かったのか?黒かったのか?も判らなくなる(誰も判定できない)という手詰まり状態がドロリと横たわることになります。
そうした中で『東照社縁起絵巻』の絵は、必ずしも駿府城天守に「うってつけ」の絵画史料ではない…ばかりか、そもそもまるで別の天守(家康時代の江戸城天守)を描いたものではないか、と申し上げたのが前回リポートです。主な論点は…
論点1.一連の『東照社縁起絵巻』は、かの駿河大納言・徳川忠長の事件と同時期に制作が始まっていて、そういう政治的背景を考慮すれば、とりわけ三代将軍・徳川家光が日光東照宮に奉納した記念碑的な絵巻に、あえて駿府城(忠長の居城)の天守を描かせた可能性は低いはず
論点2.寺社の由来(正統性)を説く「絵巻」は、権威づけのために絵柄の引用で構成されたケースも多く、その結果、駿府の場面の直後にある天守が駿府城天守とは限らず、むしろ徳川の天下を築いた家康の江戸城天守を、意図的に配置して描かせた疑いもある
というもので、結局のところ、『東照社縁起絵巻』は駿府城天守の復元の資料から除外すべきではないか? というのが当サイトの結論(確信)でありまして、これによって問題の「材料」を、大きく減らすことが出来るのではないでしょうか。
さて、そうなりますと、ご覧の城絵図の黒い部分はどう解釈したらいいのか? ということが焦点になり、これについてもブログ記事で様々に申し上げて来ました。
下図はその中で作成したものですが、現地の発掘調査で判明した天守台のひしゃげた形と、前出の静岡県立中央図書館蔵の『駿府城御本丸御天主台跡之図』に記入された寸法とを照らし合わせて、描いてみたイラストです。
で、このイラストに合わせて、例の黒い部分のある城絵図をダブらせつつ、その上に文献記録の初重の面積(10間×12間)を載せてみますと、たいへんに面白い現象があらわれます。
なんと、10間×12間が天守の黒い部分にピタリと合致するうえに、周囲の黒い部分は石塁の内側に大きくハミ出し、部分的に天守と接続する形があらわになるのです。
この意外な現象は、ご覧の黒い部分の形や大きさが決して適当に描かれたものではなく、例えば四方の黒いかたまり部分は、天守と別個の「隅櫓」ではなくて、少なくとも天守と接続した「付櫓」であった可能性を示しているのではないでしょうか。
そこで当サイトは、天守建築の具体像については八木先生の主張に寄り添いまして、二重目に高欄を設けるような「立体的御殿」の設計方針に基づくならば、そこからの眺望をさえぎる「隅櫓」「付櫓」「多聞櫓」の類いはすべて無かったはずであり、おそらく天守のまわりの黒い部分は「露台」ではなかったかと申し上げています。
このため天守台上は「露台」+「内側の地面に広がる御白洲」+「低い石積みの中央基壇」というデザインではなかったかと想定しておりまして、これは第2部のビジュアルでもご覧いただきます。
さて、巨大な天守台には防御の工夫が無かったわけでもないと思われ、その理由は、慶長19年の中井家史料『駿府御用少々記』に、四方の隅櫓?を修理したかのような記録が見られるからです。
日数百九拾壱人 同断(御奉行)
一、米拾四石四斗七升五合 彦坂九兵衛
御本丸内御殿守ノ四つ矢倉ノ内
弐つ分敷居鴨居戸しりのはた
板上の二ツの角木取かへ也
ご覧の部分の三行目に「御殿守ノ四つ矢倉」とあり、なんだ!…やはり隅櫓はあったんじゃないか、とお感じになるかもしれませんが、これは必ずしも、天守二重目の高欄からの眺望をさえぎるような「設備」ではなかった可能性(=「高欄」と「黒い部分」の両立案)もあると申し上げたいのです。何故なら…
まず先ほどの図から読み取れる可能性としまして、この当時、入口と正面の石塁はやや左(西側)に寄せられていて、したがって「石段」はまだ存在せず、天守台の内側から直接、周囲の石塁の上には上がれない構造であった節が見て取れるのではないでしょうか。
これは構造が酷似している名古屋城の天守台にも「石段」は存在しないため、ある程度、ご納得いただけると思うのですが、そのうえで黒い部分が「露台」だとして、なおかつ周囲の石塁と露台との上下のすき間に、屏風絵のごとき鉄砲隊のひそむ空間が設けられていたと仮定しますと、そこへの上り下り用の「設備」が、天守台の四隅に建て込まれていても不思議ではないと思うのです。
つまり露台下の四隅だけは史料中の「はた板」(端板・旗板)で囲われていて、そんな構造ゆえに雨露の影響も受けやすく、慶長19年に早くも「修理」の記録があるのではないかと想像しているのです。
なお、こうした鉄砲隊のひそむ空間があっても、高欄からの眺望には影響が無かった構造については、やはり第2部のビジュアルでご覧いただきます。
前出の諸先生方の案を <屋根の数> という観点で分類しますと、あくまでも「五層」としたのが、城戸案、内藤案、宮上案だけでして、その他の案は「六層」(屋根が六つ)でも致し方がない…という判断になっています。
何故こんなことになったのか?と申せば、そこには文献記録の書き方に意外な「落とし穴」があったからではないか、と思うのです。と申しますのも、下図のように、文献記録の細部の(無造作な?)書き方のまま復元を行うと、いきおい屋根が六つ必要になってしまうのです。
詳しくはブログ記事の方をご覧いただくとしまして、要は、文献記録の多くが文中の「腰屋根」「屋根」という言葉の数は「五つ」であり、五重天守であると思われるのに、七階分の各階の平面形を単純に積み上げると、どうしても【第1図】のように屋根が六つ必要になってしまう、という不思議な書き方になっているのです。
これこそ文字情報の中に潜んだ「落とし穴」のせいだと思われ、諸先生方の復元案がバラついた三番目の元凶ではなかったでしょうか。
(※ちなみに、この問題を克服するため、内藤案では六重目で比翼入母屋破風をうまく使いながら、また宮上案では六重目を望楼型天守の大屋根の屋根裏階として「五層」としました)
一方、当サイトは【第2図】のごとくに、六重目は文献の桁行と梁間の数値が、実際とはひっくり返った形で記されたのではないか? と申し上げて来ております。
これは現に、『当代記』等の文献記録はすべて「六之段 五間六間」という風に、桁行と梁間の指定(区別)が一切ありませんでして、常識的な文献の読み方に対する「想定外の」落とし穴があったのかもしれないのです。
そう考えますと、ごく自然に、文献記録の「屋根の数」どおりの、五重七階建ての天守として復元できますし、このように階によって長短の具合が変わってしまう現象は、望楼型天守はもちろんのこと、層塔型と言われる現存の松本城天守にも見られる構造なのです。
以上のとおり、当サイトなりに問題の「材料」を仕分けした結論としては、まず天守そのものは屋根が五層の五重七階建てであり、なおかつ広大な天守台上には、天守二階の高欄からの眺望をさえぎるような、櫓の類いは一切無かったはず、と申し上げておきたく存じます。
さて、ここまで申し上げて来たところで、是非とも付け加えたい話題が、第1部の冒頭から申し上げて来た、慶長12年の12月におきた本丸火災についての「謎」です。
この火災では「建造中の」天守が焼失したのかどうか、今ひとつ明確でなく、この火災前後の実相に迫ることが出来れば、再建天守とは何だったのかが、ググッと浮き彫りになるように感じられてなりません。
何故なら、この時、作事の最高責任者だった中井正清が急拠、駿府に配下の大工を引き連れて参上し、それがさも武勇談のように記録されておりますが、私なんぞは、ちょっと待てよ、何かおかしくないか… という引っかかりがぬぐえないからです。
では火災があった頃、正清はどこにいたのかと言えば、京都にいたわけで、この前後のいきさつを、後藤久太郎先生が中井家の『系譜』等をもとに手短にまとめておられます。
ということでして、なんと、火災がおきるまで、正清は駿府城や天守の工事には間接的な関与(例えば普請割の確認の書状のやりとりなど)しか行っていなかったという、ちょっと意外な事実があります。
念のため、諸書にある当時の主な出来事を書き出しますと…
慶長11年 3月 家康、旧城主の内藤信成を長浜へ移し、城の内外を巡視
慶長12年 2月 城の修築工事が始まる
−−−−−5月 天守(台)の根石を置き始める
−−−−−7月 天守台石垣と殿閣が完成し、家康が本丸の殿閣に入る
−−−−−12月 城中失火で殿舎を焼失。家康は二ノ丸に避難
慶長13年 正月 再建工事(堀と塁と殿閣)を急がせる
−−−−−2月 殿舎が上棟。大天守・小天守いっせいに作事開始
−−−−−3月 殿舎落成し、家康が新殿に移る
−−−−−8月 天守が上棟
慶長15年 半ば頃 天守落成
当ブログでは、この火災で本当に建造中の天守が焼けたのか?という問題について、櫻井先生の超巨大天守計画の話題を含めて色々と申し上げて来ましたが、ここで改めて、下図のような分析を行いますと、「再建天守」とはいったい“何の再建”だったのか?? という重大な疑惑が浮上して来るのです。
ためしに左図の縦横の比率を変えながら、両図をダブらせてみますと…
! なんと、慶長12年秋(火災直前)の「御天守」は、すでに話題の再建天守に匹敵する巨大さであり、なおかつ再建天守台への“布石”のごとき小曲輪もすでに設けられている…
これをどう考えたらいいのでしょうか。
ちなみに皆様お察しのとおり、火災前の天守周辺の様子(※上記左図の、内堀が天守の足元まで伸び、その西側に小曲輪を配したデザイン)は伏見城の城絵図にもよく似た状況がありますから、このデザイン自体は決して理由(お手本)の無いことではないでしょう。
しかしそれが後の再建天守台にピッタリと合致する、ということは、この小曲輪が火災後の再建工事に利用された可能性を物語っていると考えざるをえません。であれば、前述の「天守(台)の根石を置き始める」等々の石垣工事というのは、まさに火災前の図の、巨大「御天守」であったことになります。
以上の事柄から、この際、思い切って、こんな新仮説を申し上げるべきだと思うのです。
申し上げた正清の「不在」という意外な状況と、火災直後の打って変わった即応ぶりに着目しますと、こんな新仮説も決して不思議ではないように感じます。
すなわち火災前には、そこに豊臣大名の中村一氏か内藤信成の時代からの天守がずっと存在していて、その天守台を包み込むように石垣工事が始まり、「根石を置き始める」などと記録されたのは、すべてその工事のことだった―――
だから正清は「不在」であった(=本人が居る必要は無かった)のであり、そうして広げられた天守台上で、いずれ「超巨大天守」への改築が想定されていたとしても、幕府は即座に改築するつもりは無かった―――
という状態だったのではないでしょうか。
ちなみに、このことは内藤先生も別の意味で指摘されていて、ただしそれは再建天守についての考証(「焼失天守台をそのままにして、その外辺に新たな天守台を付加せしめた」『城の日本史』)でありまして、これに対して当リポートは、実は、火災前の段階から、そういう“特殊な”石垣工事がなされていたのではないかと申し上げたいわけなのです。
しかも、そこで言えることは…
<徳川家康は最初から巨大な「台」で既存天守を囲めばよいと考えていた>
という、研究の初期からの大問題であった「広すぎる天守台」の由来につながる、家康本人の発想(見識/好み/慎重さ/さらには宗教観→後述)の謎解きまでもが、一気に可能になって来るわけです。!!
(※この意味では現地・駿府城公園内での、もう一段の、徹底した発掘調査を望みたいところでしょう)
(※2018年10月31日補筆 / ご覧の新仮説については、2018年度の発掘調査で真偽が明らかになりまして、その詳細はこちらのブログ記事でご覧いただけます)
以上のように考えた場合、京都の正清が“本丸全焼”と知った時の驚愕と焦りがなおさら想像され、何故なら、やはり技術的に困難な「超巨大天守」の計画はすぐさま白紙に戻し、そのうえで家康が満足しうる天守を再建せねばならないという、設計の大転換を、急ぎ家康の周辺で根回しする必要に迫られたのではないか… と思えるからです。
そうした中で名コンビの出番となるわけで、それまで小堀遠州は正清とともに後陽成院の作事に関わっており(『小堀家譜』)、火災直後の正月六日には幕府から遠州に対して駿府城作事奉行の任命が下っています。
いち早く駿府入りした正清の、ウルトラCの暗躍と、安堵ぶりが想像できるでしょう。(→遠州の駿府入りは、火災後の再建御殿が落成した三月になってからであり、二人が遠隔地でも息を合わせていた状況がうかがわれます)
ここに至って、リポートの冒頭でご紹介した内藤先生の「(天守の)デザインは、駿府城の天守奉行小堀作助(のちの遠州)であり、御大工頭が中井正清であったことからも、名古屋城の様式に受け継がれたものと考えられる」という指摘が説得力を増して来て、駿府城と名古屋城の天守の関連性を考えれば考えるほど(※絵画史料の仕分けをしたばかりで恐縮ですが)、内藤先生が注目した「築城図屏風」の重要度がグンと増して来るようです。
ご覧の図は「築城図屏風」のちょっと異様な姿の天守(=細かい破風まで平側と妻側がまったく同じ!)は、屏風絵の制作過程に何か無理があったせいではないかと考えて、それは絵師が平側の情報だけで無理やり「四方正面の天守」を描いた結果であろうと推理したものです。
この「築城図屏風」は、所蔵する名古屋市博物館のホームページでは「慶長12年(1607)築城の第一期駿府城とする説が有力であるが、駿府城の縄張り(建物配置)と一致せず、名古屋城・金沢城をあげる説もある」としていて、いちおう駿府築城の加賀藩手伝い普請の様子を描いたとする内藤説を有力視しています。
そこで天守について一言だけ申し上げるなら、屏風絵の描写は、初重が名古屋城天守そのものとしてはとても理解できません。
したがって当ブログの一連の推理(1・2・3・4・5・6・7)を是非ご高覧いただきたく、屏風絵はまさに、中井&小堀コンビが放った大逆転ホームランの再建天守を、加賀藩の絵師が資料をもとに難渋しつつ描こうとしたものと確信しております。
では、以上の仮説をイラスト化してみましたので、ご覧下さい。
突然、こんなことを申し上げて戸惑われるかもしれませんが、上のイラストでご覧のとおり、巨大な天守台に真っ平らな「露台」を想定した場合、それはそれで強いインパクトがあったことはお解りいただけるでしょう。
ですからリポートの冒頭から問題の「広すぎる天守台」の謎は、ますます解明が求められるわけで、前述の家康の判断(既存天守を石垣で囲めばいい)の理由の一つとして、家康の浄土信仰という観点を含めますと、申し上げた萌芽期の天守の形態ともまた別の意味で、答えが出てしまう可能性がありそうなのです。
と申しますのは、「浄土」というのは、中国や日本の大乗仏教では、例えば阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿しゅく仏の東方妙喜浄土、薬師仏の東方浄瑠璃浄土など、東西南北のあらゆる方角の彼方に、浄められた仏国土(=浄土)が無数に存在している、という教えを前提にしているからです。
そこで浄土信仰においては、すでに釈迦が入滅して、多くの煩悩や悪業が満ちている現実の娑婆世界(=穢土/えど)を離れて、浄土に往生するため、人々に念仏を唱えることを説きました。
そして家康の浄土信仰は、ご承知のとおり、三河における松平家代々の帰依に始まるもので、自らの旗印にもした「厭離穢土 欣求浄土」は、大樹寺の僧・登誉(とうよ)が戦国の世を穢土と見なして、若き家康にさずけたものとも言われています。
そして慶長11年、家康は駿府城の築城開始を祝って、すでに徳川将軍家の菩提寺であった増上寺の住職・存応(ぞんおう/慈昌ともいう/浄土宗)に、蓮馨寺、大巌寺、弘経寺、新知恩院の各長老とともに「常然無衰無変(それを建立してからは常に変らず衰えることも変化することも無い)兵伐無用(兵も武器も要らない)」という教理での法問を行わせました。
つまり、それだけ駿府城の存在に期待をかけていたのでしょうが、家康が天守からの眺望を重視していたとすれば、それは単なる目の楽しみではなくて、やはり四方の世界とつながる建築という意味合いが感じられ、それは例えば、城絵図で小天守台の上に描かれた多聞櫓(!!…小天守ではありません)も、そういう眺望の邪魔をしないように配慮された結果なのでしょう。
で、天守台の巨大な穴倉のなかを覗いてみますと、すっぽりと「立体的御殿」の初重(元段)が納まっていたはずですが、ここにも、不要の穴倉をただの穴倉に終わらせていない、浄土信仰を背景としたデザインの工夫のあとが読み取れそうなのです。
すなわち、かつて仏教学者の平川彰先生が、仏塔の作り方と極楽浄土の姿はよく似ている、という指摘をして注目されまして、どういうことかと言いますと、仏教の聖典『律蔵』では、仏塔を作るには「四方を欄楯(らんじゅん/石柵)で囲み」「四面に池を作り」「四辺に階道を設ける」などと規定されているそうで、それはご覧の天守の形状を考えたとき、ちょっと見逃すことが出来ないのです。
ご覧のようなイラストで、私が申し上げたい事柄が伝わるのか自信がありませんが、一見すると大変に特異な形のなかに、実は、家康の壮大な構想が、組み込まれていた可能性もあったのではないか… と申し上げてみたいのです。
浄土信仰では「仏塔崇拝」は浄土に往生するための善根とされているそうですし、それは悪業を重ねた者でも「悪人成仏」しうる道とされていて、戦場で血にまみれた家康が何を天守築造に込めたのか、そこには当然、安土城天主との連関もあったことでしょう。
織田信長が創始した「天守」に対して、その天下布武の大戦略がようやく完了しつつある時代において、家康の思う「欣求浄土」がさらに重ねられ、天守は四方正面 かつ巨大天守台の上に真っ平らな世界、という駿府城天守の造形につながったようにも感じられてならないのです。
個々にはイラストの「御白州と高欄(舞台)との関係」「空中庭園としての天主台上の露台(空き地)」「洛中洛外図の二条城天守の周辺にも描かれた華頭窓の透き塀」「地階を照らす金灯篭」など、もともとは織田信長が安土城天主の造形のために用いた要素が、あらためて駿府城で再構成されていたのかもしれない… などと思えてしまうのです。
天正10年、家康主従の安土訪問のとき、燦然と輝く安土城天主を間近に見た家康がいちばん心に留めたのは、金箔瓦ではなくて「朱柱」だったかもしれない、という話をブログ記事で申し上げました。
それは後々の家康や遠州の王朝風の意匠に対するこだわりと、問題の「築城図屏風」に描かれた朱柱の存在から、逆算して申し上げたことでして、もし本当にそうだったとしますと、残る課題は朱の“色味”になって来るのでしょう。
内藤先生はそれを「朱茶色」と評しましたが、屏風絵がどれだけの経年変化で退色した状態なのか判りませんので、今回のイラスト化では、徳川将軍が公式の場で使った「朱茶色」に近い色、ということで「溜色」を選んでみました。
「溜色」はご承知のとおり、徳川将軍や有力大名の乗り物(輿)の色として有名ですし、大御所の隠居城にもふさわしく、また現代では皇室の馬車や列車、専用車の色としても継承されたものです。
で、その溜色を選んでみて驚いたのは、文献記録では天守の金具類(懸魚・逆輪・釘隠など)はほとんどが「銀」だったわけですが、なぜ金ではなくて「銀」なのか?と以前から疑問に感じていたのが、いっぺんに解決したようでした。
それはイラストでご覧のとおり、こういう色の柱だからこそ、「銀」の金具類だったのだ… と、もうほとんど確信に近い印象を持っているのですが、いかがでしょうか。
さて、イラストの唐破風は前述の「小さなコロンブスの卵」説から、文献記録で四重目か五重目にあったとされる「唐破風」は、こういう風に妻側の四重目と五重目の屋根の間に大きく設けられていたのだろう、という想定で描いたものです。
で、小堀遠州が築城に関与した徳川の城は、伏見城、駿府城、名古屋城、大坂城、二条城、水口城ですが、このうち水口城には天守が無かったとされる一方で、それ以外の城の天守は、何故か、ご覧の二条城天守のように低層階の妻側に決まって「唐破風」があったようなのです。
「あったよう」と申しましたのは、伏見城天守については実態が分からないものの、それが移築されたのがご覧の二条城天守だという状況であり、また幕府再築の大坂城天守は、信憑性が高いとされる願生寺蔵の指図には唐破風が無いものの、それが発見されるまで唯一の伝世史料だった内閣文庫蔵の絵図には、しっかりと二重目の妻側に「唐破風」があるからです。
事の真相は分かりませんが、いずれにせよ、最初に低層階の妻側に「唐破風」をもって来たのは小堀遠州ではないか… と勝手ににらんでおりまして、おそらくは遠州のデザインで始まったことだろうと思っているのですが。
上の図は、安土城天主の画題の配置を、そのまま当リポートの駿府城天守に当てはめてみたシミュレーションでして、一つの考え方としては、これもありうるのではないでしょうか。
この手法であれば、例えば最上階の帝鑑図はちょうど、名古屋城本丸で復元される書院(上洛殿)と似たような荘厳さになるのかもしれません。(※ただしその上段の間は、名古屋城天守の最上階と同じく南東の本丸御殿側になり、室内が上洛殿とは真逆の配置か…)
そしてこういうシミュレーションをおろそかに出来ないのは、一つには、安土城天主について詳しく伝えた『信長公記』の写本が出回った時期が、微妙に重なっていたという事情もあるからです。
ひょっとすると、このような天守内部は、「立体的御殿」の最終決定版としては、むしろいちばん相応しい姿だったのかもしれません。…
※目下、「聚楽第」を中心に内容項目を吟味中。