2011年度リポート

そして天守は海を越えた

東アジア制海権「城郭ネットワーク」の野望

― 豊臣大名衆は海辺の天守群から何を見ていたか ―


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作画と著述=横手聡(テレビ番組「司馬遼太郎と城を歩く」ディレクター)


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はじめに 日本人の記憶から消えた《大海原と天守》のイメージ


天守閣風の観光施設「熱海城」(昭和34年1959年竣工)/相模湾を一望する岬の突端にある

のっけから史実に基づかない建物の写真で恐縮ですが、現在、海辺の岬に建つ天守、という風景は、こうした模擬天守の他には全国的にも見ることが出来ません。

熱海城と言うと、館内にあの荻原一青(おぎはら いっせい)作品の展示があるものの、かく申し上げる私も含めて、建物自体は城郭ファンの方々にちょっと気恥ずかしい気分を与えるものでしょう。

ところがこうした稀有(けう)な風景は、豊臣秀吉の時代に、全国の(否、北東アジアの)多くの海辺で見られた可能性があり、それは下図で一目瞭然です。細かい文字情報はあとで拡大版をご覧いただくとして、ここはまず全体の「天守の色の分布」にだけご注目いただけませんでしょうか?


当図に示した天守は、慶長3年当時の存在が確実なものと、そうした有力な伝承や推定がありつつ発掘調査等でまだ否定的な報告が出ていないものを積極的に盛り込みました。

武将名はそこを居城(または支城)とした豊臣大名の名を記し、朝鮮半島の「倭城(わじょう)」群については、慶長3年の全軍撤退直前の在番武将を記しました。
(※ただし漢城の天守のみ文禄元年)
(※武将名は新人物往来社『日本史総覧』所収の「豊臣時代大名表」による)
この結果、色の分布からは、次の三つが言えるようです。

1) 内陸部の天守は、織田信長時代の影響もあって、畿内に多くが集中していた

2) 一方、海辺の天守はいずれも豊臣時代に、大坂湾−瀬戸内海−四国沿岸−豊後水道−北部九州−朝鮮半島南岸のラインを中心にして築かれた

3) 天守のない海辺の居城を含めた場合、それらは主要な湾を取り囲むように配置されていた

このように時期を限って見直してみますと、天守の目的とは何だったのか、新たな興味もわいて来るようでして、とりわけ、対外戦争という激烈な戦闘の最前線だった「倭城」に、何故、かくも多くの天守を連ねる必要があったのでしょうか。



(※在番武将は戦況に応じて度々変更され、図には推定が含まれることをお許し下さい)

ご覧の様子からは、かつて城郭談話会の高田徹先生が「改めて豊臣期の天守の分布等を基に、豊臣政権が城郭天守に希求した諸機能・役割等を、明らかに出来る可能性」(『倭城の研究 第2号』)とおっしゃった文言が思い出されます。

しかし反面、私などはそこに、必ずしも高田先生の「天守の軍事的機能」という観点だけでは片付けられない、重大な問題が横たわっているように感じられてなりません。

そこであえて結論めいた事を先に申し上げるなら、それは「天守」を版図拡大の前面に(しかも海側に)押し立てなければならない大局的な動機を、豊臣政権と諸大名が共有していたからではないか―――
そうした観点に立ちますと、海辺に並んだ天守群というのは、「天守」そのものの解明にとっても、かなり重要なカギをにぎっているのかもしれません。

他方、世間一般では「城下町に囲まれて天守閣がポッコリ頭を出している」といった江戸期の平和な風景が、お城の定番イメージとしてすっかり固定化しています。
そんな世情に一石を投じる意気込みを持ちつつ、今回もまた、数々の大胆仮説を申し上げてまいります。



秀吉の本音が透けて見える――
大陸遠征の最終本拠地がどうして寧波(ニンポー)なのか

海辺の居城群のナゾを解くためには、まず秀吉の本音をさぐることから始める必要がありそうです。

例えば、朝鮮出兵の進攻から一ヶ月もたたずに漢城(ソウル)が陥落した直後、秀吉が打ち出した破天荒な大陸経略構想は、おおよそ以下の項目と言われます。(関白秀次宛朱印状、山中橘内書状等による/一般には「三国国割構想」「北京行幸計画」等と呼ばれるもの)

1) 明を征服したのち、後陽成天皇を北京に移して十ヶ国を御料所とする
2) 現在の関白・豊臣秀次を中国の関白とし、北京のまわりに百ヶ国を与える
3) 日本の天皇は良仁親王か智仁親王とし、次の関白は羽柴秀保か宇喜多秀家とする
4) 秀吉自身は寧波(ニンポー)に居所を定め、天竺(=インド)の征服をめざす

歴史ファンの間でもこの話になるともう思考停止になりがちで、その先をあれこれ言う空気にならないようですが、この話は現実味のない政治的アドバルーンに過ぎないのかどうか、ここで試しに関白秀次の「北京の百ヶ国」を簡単にシミュレーションしてみましょう。

日本列島の面積は38万平方kmと言われますので、蝦夷地を除く「六十余州」から一ヶ国あたりの平均を出して「百ヶ国」を単純計算してみますと、答えは44万6千平方km=約670km四方の領土が、日本人に想像できる「百ヶ国」の広さと言えそうです。ところが…



ご覧のとおり「百ヶ国」と言えども、大陸的な感覚では何ほどのことも無くなってしまいます。

これでは秀吉の無知が丸出しのようですが、気になるのは、それ(百ヶ国)以外の広大な国土はいったいどうするつもりだったのか? という点でしょう。

おそらく秀吉の恐さが顔をあらわすのはこういう場面で、それ以外は少なくとも関白の直轄領でない(…!)と分かった瞬間、やはり諸大名間で分け取りできるのだという“皮算用”が暗黙のうちに伝えられたかのようであって、たとえ誇大妄想狂的な話でも、実際には、大名衆に現実の困難さを忘れさせる“アメ”としての効果は絶大だったのかもしれません。

そうだとしますと、やはり大陸遠征(朝鮮出兵)自体の戦争目的にも疑念が生じてしまい、建て前と本音が錯綜(さくそう)していたのではないか… という観点から当リポートが注目したいのは、秀吉自身の最終的な本拠地として挙げられた「寧波(ニンポー)」なのです。



朝鮮半島に将兵を送り出した肥前名護屋城の天守(推定復元/詳細は後半で)


天下人・秀吉を筆頭に、諸大名は
朝鮮出兵の間も南蛮貿易を続けていた

当時、増大する銀の産出を背景に、日本社会は生糸・絹織物などの贅沢品の大量輸入を始めていて、それらは海禁策の明帝国を横目に、ポルトガル船などの中継貿易で買い付けていました。


海外貿易の最大の投資家は、他ならぬ秀吉その人であった。秀吉は常に多額の銀を準備して、これを大々的に貿易に投資して、時にはその利潤の独占さえ企てた。

(岩生成一『朱印船貿易史の研究』1985)

対外交渉史の大家だった岩生成一先生によれば、秀吉こそが、権力と財力にものを言わせて、大量の生糸や銃弾用の鉛、呂宋(るそん)の壺などを買い占めた張本人であって、それは文禄・慶長両度の朝鮮出兵のさなかも続いたそうです。

また秀吉以外の諸大名にしても、銃弾用の鉛などの輸入は死活問題であり、例えば薩摩の港からは年に十隻の商船が南方の十ヶ所に向けて出帆したという記録もあるようです。


領土的な野心と、海上覇権の奪取と、どちらが秀吉の本音だったか…
(※図は岩生先生の航路考定図などを参考に作成)

図の朱印船航路は時期がやや後のものですが、東アジアの海には元々の中国人の密貿易船や琉球の船に、ポルトガル、スペイン双方の商船が加わり、そこに豊臣政権が自ら倭寇の取締りを断行しつつ朱印船をくり出して来て、まさにアンソニー・リードの言う「交易全盛期」が頂点に達していました。

その利潤の規模は、例えばドル箱路線のマカオ〜長崎航路の長崎港を領内にもつキリシタン大名・大村純忠(おおむら すみただ)の場合、「船舶税や商品取引量の口銭(手数料)一割が主な収入源で」「大村氏所領高の約四倍の価値があった」(吉永正春『九州のキリシタン大名』2004)とも言われます。

そして問題の寧波(ニンポー)と言えば、ご承知のように、室町時代に足利義満の勘合貿易(朝貢)で窓口になった港ですが、その後、大内氏と細川氏の抗争事件(寧波の乱)や明側の倭寇取締りの影響でさびれ、16世紀にはポルトガル商人が街をつくり、倭寇の大頭目・王直なども出入りするアンタッチャブルな国際貿易港と化していた場所です。
そんな寧波を、自らの遠征(戦略)の最終本拠地に挙げた秀吉の本音は何だったのか――― これには相当な政治的イマジネーションが必要のように思われるのです。

例の「天竺(インド)征服」云々にしても、要はポルトガル領インドの首府ゴアの港を制圧して、ヨーロッパ航路を直接引き受けることが真の狙いだったのでは… などと思えば、同じ日本人の戦争でも、昭和の日中戦争や太平洋戦争とはだいぶイメージが違って来るのです。



これが<海辺の天守>の原形か?
中井均先生の琵琶湖「城郭ネットワーク」論



(『別冊歴史読本』1989年5月号 / 『城と湖と近江』2002年)


(※上記二書に掲載の図を参考に作成)

さて、秀吉の本音をさぐる上で、たいへん興味深い論考が滋賀県立大学の中井均先生から提示されて来ました。

それは織田信長の安土城を中心に、琵琶湖の周囲を秀吉などの有力家臣団の城がぐるりと囲んでいて、先生いわく「湖上ネットワーク」というべき城郭配置がなされていた、というものです。


(中井均「城の船入−海・湖・河川と城郭−」より/『城と湖と近江』所収)

かつて筆者は織田信長の近江支配について、信長の居城安土城を中心に羽柴秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城、織田信澄の大溝城という配置に着目したことがある。
湖(うみ)の城郭網、あるいは湖上ネットワークと呼称したこの城郭配置に信長の城郭網構想を窺うことができる。これら諸城の立地や構造には多くの共通性が見出せるが、なかでも注目できるのはすべての城郭の堀が琵琶湖と直結しており、琵琶湖に依存していた城郭網であった点であろう。
陸路の要衝であるとともに湖上交通の要衝でもあり、これらの城を押さえることによって琵琶湖の制海(湖)権はすべて信長のものとなったのである。


中井先生が指摘したこの「湖上ネットワーク」の大きな狙いは「制海権」ということで、有名な信長の琵琶湖の「大船」(『信長公記』)とも相まって、支配の様子がリアリティをもって伝わって来ます。

その一翼を長浜城で担っていた秀吉は、この時、制海権がもたらす兵站と通商のダブルメリット、言わば広域を効率良く支配するノウハウを学習したことは想像に固く、おそらく秀吉の印象としては、「制海権」と「版図」はイコールに見えたのかもしれません。



琵琶湖―東アジアの海 比較ケーススタディ
【長浜城―浦戸城ほか】
ともに居城を内陸部から岸辺に移転させて、その突端に天守を上げた



「坂田郡長浜新田絵図」等をもとに長浜城を描いた略図

前述の中井先生の論考にあるとおり、秀吉の長浜城は、内陸部の山上にあった浅井氏の小谷城を湖畔に移して「湖上ネットワーク」に備えた城でした。

で、その長浜城がどんな城であったかについては、よく幕末の長浜町絵図や長浜新田絵図などをもとに描かれた復元イラストが誌面を飾ります。
そうした絵図のガタガタした妙な形の本丸は、ややもすると天正大地震(天正13年)の激しい地盤沈下の影響も感じられてチョット気になるのですが、それでも長浜城・坂本城・大溝城はどれも湖の側に本丸があって、そこに天守が上げられたことは間違いなさそうです。

しかも各天守の先の対岸には安土城があるという関係になり、これは単純に「後ろ堅固」のためとばかりも言えない曲輪配置が感じられます。それは言わば「後ろ堅固」から一歩進んで、制海権のある湖(海)上を“安全地帯”と見なして個々の城の縄張りを行う手法、とでも申し上げたらいいのでしょうか…。


豊臣大名の天守マップ 「中国・四国・九州」


一方、豊臣政権下で居城を海辺に移した大名の一人が、四国の長宗我部元親(※かの松田毅一先生によれば当時の発音は ちょうすがめ もとちか)です。

元親の居城移転はおおむね次のように、旧来の岡豊(おこう)城から → 大高坂山城(現高知城)で治水工事難航 → 急遽、浦戸(うらど)城に変更して移転、というプロセスがあったとされます。


旧来の居城・岡豊城跡を訪れた方はきっとご賛同いただけると思うのですが、その第一印象は一回り小さい安土山や小牧山のようで(→綺麗なウィキペディア写真)、領国経営には何の不足も無かっただろうと強く感じました。

ですから次の大高坂山城の整備に取り掛かったこと自体が、豊臣政権下で浦戸湾にアクセスする機能を求められたためかとも思われ、結局はいっそうダイレクトに、湾口の岬の浦戸城で、突端の本丸に天守を上げるという、琵琶湖の城とそっくりな形に決着しています。




さて、続いて東北をご覧いただきますが、織豊政権の最後の年・慶長3年でも、かつて秀吉が奥羽仕置のため下向した会津若松城を北端に、それ以北はまだ天守が皆無だったことが分かります。

豊臣大名の天守マップ 「東北」


この状況は、当サイトが「天守は織豊政権の版図を示した革命記念碑」とずっと申し上げて来た定義に、若干の修正を迫るものです。

それはすなわち、織豊政権が日本の再統一後に「西方」(=大陸の帝国や皇帝)に向き合うことと、天守の発祥とは、底流で密接にリンクしていた可能性があることで、この点は今回のリポートのテーマにも深く関わるものだと思われます。

また東北においても、居城の移転では興味深い例があり、それは相馬義胤(そうま よしたね)の海辺の築城計画が消滅した事件です。

相馬氏は当時すでに数百年の歴史をもっていた名家で、義胤の居城は内陸部の小高城でしたが、慶長元年、村上海岸に面した丘陵上に新城(陸奥村上城)を築いたものの、結局、再び内陸部の牛越城に居城を戻しました。

その理由が変わっていて、新城の御殿を建てる前日に、火事で材木が焼けてしまい、それを不吉とした、というのです。
この話の現場、南相馬市小高区は私などが申すまでもなく、原発事故で全域が警戒区域になり、住民の方々が全国各地に避難を余儀なくされた場所です。

で、陸奥村上城の一件はひょっとすると、石田三成とつながって時流を読んだつもりの相馬氏が、さらに時流の変化を察知して、ひそかに家中の自作自演で計画を逆戻りさせたのでは… とも読みとれて興味深いのです。


豊臣大名の天守マップ 「関東・北陸・中部など」


ご覧の中では是非とも、徳川家康の江戸城にご注目下さい。
この時期、江戸城はまだ規模が小さかったため、城が直接、江戸湾(埋め立て前の日比谷入江)に面していたわけで、これもやはり秀吉の大戦略にぴたりと合致していた疑いが濃厚です。

居城の移転という意味でも、前の居城(駿府城)に比べればはるかに海辺に出た形になりますし、当時の江戸城は、たとえ土塁づくりであっても、むしろ豊臣大名の筆頭にふさわしい「豊臣の城」としての機能が強かったように思われるのです。

それは家康の処世術としても、また家康本人の海外貿易への関心の強さから言っても当然でしょうし、しかしそれに反して、当時は天守が無かった、とされる点については、私などは本当にそうだろうか… という疑念をぬぐえずにいます。

何故なら、家康は少なくとも前の駿府城で「小天守」を築いたことは明らかですし、もし下図のような位置に富士見櫓の前身の櫓があったとすれば、それは大手御門から見て<本丸の左手前の隅角>という織田信長由来の天守の位置(→参考記事)になり、なおかつそれが<海辺の突端>にも当たるからです。



正直に申しまして、ここには豊臣大名の<海辺の天守>があっても不思議でなく、その屋根には金箔瓦が燦然(さんぜん)と輝いてもおかしくはない―――

というのが私のひそかな観測でして、要は現地(富士見櫓)が宮内庁の頑強なシャットアウトで発掘調査が出来ないだけで、もしあそこの石垣が崩れたら、土中から金箔瓦片がざくざく出るのでは… などという妄想も広がってしまうのです。



富士見櫓(解体復元)/石垣の方は関東大震災にも耐えて江戸時代のまま


琵琶湖―東アジアの海 比較ケーススタディ
【安土城―肥前名護屋城】
ともに天守の直下には、天皇の行幸殿「御幸の御間」があった!?


豊臣大名の天守マップ 「畿内」


ここまでの天守マップで、織田信長の時代に直接さかのぼれるのは、姫路城、岐阜城、越前大野城の三天守のみと思われ、残念ながら「湖上ネットワーク」の天守はどれも姿を消したことになります。



かつての琵琶湖の湖上(北西側)から見た安土山/右の峰に総見寺三重塔の先端

安土城は山頂主郭部に天皇の行幸殿「御幸の御間(みゆきのおんま/みま)」があったと伝わり、その詳しい場所や規模をめぐって論争が続きましたが、いずれにしても織田政権の中枢にふさわしい備えがあったことになります。

一方、海辺の天守群でそうした安土城に匹敵する城は?と言いますと、豊臣大坂城も伏見城も海辺の城とは言えないため、いきおい朝鮮出兵の大本営・肥前名護屋城だということになるでしょう。

―――で、この両城にはなんと、驚愕の共通点があったのです。


肥前名護屋城の位置/戦況の結果か、奇しくも対岸には倭城天守がズラリと…


肥前名護屋城跡/遊撃丸から見上げた天守台跡


(※『特別史跡 名護屋城跡』に掲載の調査区配置図より作画/当図は上が東)


天守台の上から見下ろした遊撃丸

肥前名護屋城跡でいちばん興味をひかれる曲輪は?と問われれば、私などは文句無く、「遊撃丸」だと申し上げるでしょう。
名称の「遊撃」は、有名な明の副使で、交渉の裏側で暗躍した遊撃将軍、沈惟敬(しん いけい)にちなむもので、惟敬の宿所があったとも言われる曲輪です。

近年公開された群馬本の肥前名護屋城図屏風では、「遊撃曲輪」(従来は二ノ丸と思われた部分)に三〜四棟の御殿が描かれているものの、ここは後世にミカンの果樹園になり、その深耕のためか、県の発掘調査では敷地の中央部分からは何も発見できなかったという場所です。

にも関わらず、何故、遊撃丸がいちばん興味ある曲輪かと言えば、下の二図が「同縮尺」で、「ちょうど東西が真逆」の関係にあるからです。




両図をダブらせてみると…


ご覧のとおり、遊撃丸と伝本丸は、敷地の形やおおよその広さ、天守との位置関係、全体が石塁や石垣で厳重に囲まれていること、しかし石塁上に上がれば良い眺めが得られること、そして第一の門が南から入る形であることなど、あらゆる点が、驚くほど似ているのです。

そこでご覧のように両図を重ねてみますと、安土城では敷地いっぱいで狭苦しかった御殿が、余裕をもって建てられることが分かります。

これはいったい、何を意味しているのでしょうか。

冒頭で申し上げた秀吉の大陸経略構想では、計画の目玉として、後陽成天皇の北京行幸が掲げられています。
一方、安土城の伝本丸も、正親町天皇(もしくは誠仁親王)の安土行幸に備えた「御幸の御間」があったのではないかと論争になった場所です。

この状況が示す可能性を直裁に申し上げるなら、遊撃丸も、元来は「天皇の行幸殿」として築かれた場所だったのではないか…… あの城内でもひときわ堅牢な石塁の囲みは、そのためだったかと思えば、じつに納得のいくものです。

【肥前名護屋の築城と北京行幸にまつわる出来事】
天正18年 (※発掘成果 本丸北側の水手曲輪から天正十八年銘の瓦が出土)
天正19年 8月23日  肥前名護屋に秀吉御座所の普請が命じられた旨の書状
        9月3日   壱岐島に秀吉御座所の普請を命じる松浦氏宛朱印状
        10月    肥前名護屋で正式?の築城開始(黒田家譜より)
文禄元年  4月12日  小西行長ら第一陣、釜山に上陸
        4月25日  秀吉、肥前名護屋に着陣
        5月1日   佐竹氏の家臣の国元宛書状
                「てんしゆ(天守)なともしゆらく(聚楽)のにもまし申候」
        5月3日   漢城(ソウル)陥落
        5月12日  釜山から漢城までの秀吉御座所の普請を命じる諸将宛朱印状
        5月18日  秀吉が大陸経略構想を打ち出す
        5月か9月か翌年1月(文書に日付なし)
                後陽成天皇が秀吉の渡海を翻意させようとする勅書(事実上の
                行幸拒否を伝える勅書)を出す

現状の遊撃丸は、のどかなミカン畑跡地ですが、ここも激動の歴史の舞台であったようで、しかも発掘調査はやや限定的でしたから、ひょっとすると将来、行幸御殿に関わる遺物が出るのか否か、もしくは安土城の論争にも手がかりが得られるのかどうか――― と、一城郭マニアとしては期待感のふくらむ曲輪、それが「遊撃丸」なのです。



ただし以前のブログ記事でも申し上げたとおり、安土城の「御幸の御間」をめぐっては諸先生方の間でも、例えば次のような三者三様の考え方がありました。



このうち私などは川本重雄先生の説に最も共鳴する者でして、そうなると遊撃丸も、たとえ御殿があったとしても、それは形式上の行幸殿として「上々段」を備えたもの、というケースを考えざるをえません。
その場合、秀吉はあくまでも政治的ポーズとして、着々と北京行幸を準備していたのかもしれず、その辺りがまた建て前と本音が錯綜しているようです。

秀吉の意識としては、かつて信長が安土城から琵琶湖とその先を眺めつつ、城内に「御幸の御間」をしつらえた心の内をなぞっていたのかもしれません。



「群馬本」肥前名護屋城図屏風の新発見で見直しが迫られる天守の復元

さて、問題の遊撃丸を見下ろしていた天守は、その変則的な柱間(礎石の配置)から、豊臣大坂城天守の“姉妹版”であることは明らかだと思われます。何故なら…



(当図は上が東)

県の発掘調査で、天守台の南北は10尺・13尺・9尺という非対称な柱間が並んでいたとされますが、このうち南側だけを足し算しますと、計40尺という切りのいい数字になります。
一方、東西は9.4尺の等間隔だそうで、すると全体は南北70尺×東西56.4尺の範囲に割り付けられた形です。

これは、中央の柱間だけを一間半にする、という秀吉の天守に特有の手法(→参考記事)を踏襲しつつ、一部に太閤秀吉の格式を示す「十尺間」を採り入れながら、最大70×56.4という天守台規模(多少いびつな可能性もある平面形)に押し込めるための“苦肉の策”だったと言えそうです。



このように柱間が、秀吉の他の天守と同じ手法を踏襲していた以上、その上の天守の構造も似ていたと考えるのがごく自然なアプローチでしょう。 ちなみに文献にはこの天守について「七重」(『吉見元頼朝鮮日記』)「五層楼」(『日本往還日記』)とあるそうで、内部七階・外観五層とも言われますが、より具体的な姿を知るための貴重な材料が、前述の(新発見の!)「群馬本」肥前名護屋城図屏風なのです。


「群馬本」の詳細はご覧の佐賀県立名護屋城博物館で発行しているリーフレット等をご覧いただくとして、ここでは「群馬本」の天守の描き方と、従来の「名博本」との違いに注目したいと思います。



両屏風の天守の描写/左が通称「名博本」、右が通称「群馬本」

一見してお感じのとおり、右の「群馬本」はおそらく江戸後期に模写された完成版の屏風だそうで、ただし一部には(沿岸部の船橋の描写など)名博本に無い訂正の類が見られるため、一概にどちらが正しい・間違っている、とは言い難い関係にあるようです。

そこで既成概念にとらわれずに、まず従来の「名博本」から、天守の描写を当サイトの豊臣大坂城天守のイラストと比較してみます。(※イラストは見易いように左右反転しました)
すると、屋根の配置で、思わぬ発見があるのです。



上から順に、同じ層の屋根を同じ色で塗り絵したところ、以前は殆ど目立たなかった屋根の混乱が見えて来たのです。

すなわち「?」のある茶色い屋根がダブっていて、ひょっとするとこれは、天守の向こう側から続いて来た「狭間塀の角」と見えなくもないのですが、一方、右のイラストと比べますと「張り出し部分の屋根」としては正しい描写のようにも見えます。

この件は、これまで「外観五層」と誰もが疑わなかった通説に風穴をあけそうで、考えられる可能性としては、絵師自身もこの屋根のスケッチが何だったのか(失念して?)処理に困り、一見、五重天守として不自然でないように取りつくろった(!)という裏事情もあったのかもしれません。



そこで「群馬本」を同様に比較しますと、先ほどの茶色い屋根は、むしろ自然な描写に正されたようにも見え、上から「黄」「青」「茶」「うぐいす色」まではイラストと完全に一致していることになります。

このように両屏風の描写を突き合わせますと、どうやら、茶色い「張り出し部分の屋根」が絵師たちの混乱の元凶になっていた疑いが出て来て、この天守は本当に単純な外観五層だったのかどうか、ちょっと疑わしくなって来たのです。


そこで問題解決のヒントを与えてくれるのは、また「群馬本」でして、下図のとおり、下層階の屋根に注目しますと、「赤」の屋根は、イラストに比べてもう一層、下の方に屋根があった、という思わぬ方向性を示唆しています。



下の方にもう一層あった、となると、例えば豊臣大坂城天守が(『大坂城図屏風』等で)天守台上の初層と二層目は同大で建ち上がっていたのに対し、こちらの天守は、そこに一層プラスされて、初層から三層目までが同大であった、という解釈方法も浮上し、それは前述の諸々の条件をすっきりクリアできることが分かるのです。



つまり上から「黄」「青」「茶」「うぐいす色」までは大坂と同様で、しかし茶色い張り出し屋根は外観五層に数えられない程度の規模とし、その下の大屋根(うぐいす色)以下は同大の階が重なっていたとすると、両屏風の異なる描写や、文献の「七重」「五層楼」など、すべてをカバーできる復元が得られるわけです。

結論として、群馬本の登場によって、肥前名護屋城天守は五重天守の部類であっても、七重(七階建て)で下三重が同大で建ち上がっていたという、後に徳川家康が建てた駿府城天守のさきがけとも言えそうな、雄大な姿であった可能性が出て来たのです。



「群馬本」を踏まえた推定復元イラスト/北東の山里丸の周辺から見上げた角度
(※天守台の構造を見やすくするため、石垣面や狭間塀を外した状態になっています)

なお、「名博本」「群馬本」は初重の入口周辺の描写にも違いがありますが、これはどちらが正しいとも言いかねる状態で、また折衷案も難しいため、とりあえずイラストは「群馬本」の方が訂正された描写である、という解釈で作成しました。

(※その他の詳細については、次回からのブログ記事でご紹介いたします)→補足記事



対外戦争における「天守」の役割とは―――
浮き彫りになる織田信長の先見性

かくして聚楽や大坂をも上回る天守が建ち上がった肥前名護屋城は、直前の小田原攻めでの石垣山城の例から見ても、当然、秀吉のもくろみとしては、朝鮮王朝政府に“無言の圧力”をかけることが第一の目的だったはずです。

ところが事態の推移は、ご承知のように朝鮮側に危機感の深まりは無く、ましてや間を取り次いだ対馬の宗氏までも、事態の深刻さ(織豊大名の宿命)を真正面から受け止められなかった節があります。

当サイトはずっと、天守は織豊政権の版図を示した革命記念碑(中国古来の易姓革命にちなんで山頂や高層建築で天高く築いた政治的モニュメント)であった、という仮説を申し上げて来ました。

しかしそうした新機軸の「天守」も、秀吉自慢の巨城も、朝鮮側に強いインパクトを与えなかったことは事実のようです。
この点、小田原攻めでは、石垣山城が出現した時、北条側は即座に“北条王国”の未来が絶たれたことを悟り、降伏に傾いたのと比べますと、雲泥の差が生じました。

その落差の大きさは、例えば朝鮮水軍の名将・李舜臣(イ スンシン)が釜山の倭城天守を見たとき、どう感じたかと言えば、“釜山城内は倭人が三百余も小屋を建てた中に、仏殿のごとき白壁の塔をむやみに建てていて腹立たしい”(『壬辰状草』より意訳)というものでした。

ですが、そんな事態を招いた原因の一つは秀吉自身にあって、秀吉の天守は、豊臣大坂城天守が壁面におびただしい数の八幡神の神紋を飾るなど、その意識が多分に“日本国内向けのまま”であった面もあるのです。
その点で、天主(天守)の創始者たる織田信長の先見性が、浮き彫りになって来るわけです。



度々ご覧いただいた安土城天主の推定イラストですが、例えば左下のような「飛龍」が建物のどこかに高く掲げられたことは、『信長記』『信長公記』類に記された外見上の特徴です。

ひょっとするとそれは「信長の九龍壁」ではなかったか(→参考記事)と申し上げたように、信長の一貫した方針は、この天主を「皇帝」の館(「阿房宮」)に見立てて、唐様で建てることでした。
なかでも「龍」を掲げることの汎アジア的なメッセージ性を、信長は忘れておらず、そうした配慮こそ、「天守」本来の意図を明確にし、日本国内の統一だけでなく、来たる対外戦争の場に押し立てるうえでも、この上なく重要な作法であると心得ていたように思われてなりません。

こんなことを申し上げるのは、まさに信長や秀吉とほぼ同時期に、大陸では満洲(マンジュ)族のヌルハチが同様のことをやっていたからで、ヌルハチが「ハン」(漢文で「皇帝」)に即位したのは満洲族を統一した時点(1616年)であって、それから明との戦争を始め、二代目で清を建国、三代目で北京攻略、四代目で中国支配を完成、という歴史をたどりました。

つまり信長が「皇帝」と天皇の併存を意識し、「天主」を倭の皇帝の館にしようとしたことは、それ以外のすべての天守も、言わば皇帝の「行宮(あんぐう)」「別宮」として紹介される建築になったのかもしれず、そうした信長の構想のきざし(大天守や本丸を天下人のものとする作法)は現に、日本各地で影響を残したようにも見えるからです。



海辺に「天守」を建て並べた豊臣大名衆
東アジア制海権「城郭ネットワーク」という集団幻想

で、今回のリポートの冒頭から懸案になっている <豊臣大名衆は何を思って居城を海辺に移し、その突端に天守を上げたのか> という問題ですが、やはり彼等の意識に等しくあったのは、大航海時代のただ中で、日本国内の再統一戦を終えた(乗り切った)という思いではなかったでしょうか。

そうした時、日本国外に目を向けてみれば、そこには「大航海時代」と「明の伝統的海禁策」という、アジアの巨大な矛盾が横たわっていたわけで、その解決を望む声が豊臣政権のもとに結集しても、何ら不思議は無かったでしょう。

少なくとも東アジアの海は“俺たちの海”にするのだという、地球の裏側からやってきた大航海時代に対する、大名らの「回答」として打ち出された共通認識(集団幻想)がそこにあったようにも思われます。



今回ご覧いただいたように、海辺の居城群には、そうしたアジアの矛盾に挑戦する気運が反映していたように思われてならず、ましてやその突端に“倭の皇帝の行宮”たる「天守」を上げることは、諸大名のれっきとした社会的立場の表明―― つまり東アジア制海権「城郭ネットワーク」を基盤とする、織豊体制の構築に向けて、いかようにも馳せ参じる覚悟の表明に他ならなかったのだと思うのです。

そして彼等が海辺に連ねた天守群の、はるか大海原のかなたの対岸には、やがて寧波(ニンポー)の壮麗な天守が姿を見せるはずだったのです。



次回予告 2012年度リポート

「層塔型天守」はどこで生まれたか
朝鮮出兵――藤堂高虎の遠征路をゆく


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